首をひどく寝違えて一日中動くのが辛い日だった。運動を始めようと思ったら、、みたいなことがよくある。ここでめげないことが大事だ。同人誌の作業が終わったことで頭の中に余白ができたのか、今日は集中して色んな文献を読むことができ、気がついたら朝の6時近くだった。なんというか、大小関わらず先に予定が入っているということに対して、脳内にキャッシュが溜まっているようなイメージがある。あらゆる予定を今日空いてますかぐらいの感じで入れて暮らしていきたいものだが、まあ無理な話である。とはいえ、忙しそうにしてる/吹聴している人って声かけにくいしねえ(この日記もそうだろうと言われると返す言葉がありません)。となると忙しいことを隠すことになるわけだが、にも関わらず暇そうだと思われるのは癪に障る。暇なくせに忙しそうにしやがってと思われていることもあり癪に障るどころではない。たんに暇になればいいのだけれどいつになるのやら。
ずっと読まねばと思っていた戦後間もない頃の農業経済学の文献をobsidianでノートを取りながら読んだ。だいぶ使い方に慣れてきた。まだその時期は影響力のあったマル経がベースになっている論文で、途中まではふむふむと読みつつも、最終的には農業に資本主義が浸透していくにつれ労働運動に参加する「市民」が生まれました、そのための根本的な条件とは?的な結論で、面食らってしまった。経済の話をずっとしていて、最後にあるべき人間像みたいなもので終わられてもなあと思うわけだが、そういう時代だったのかしら。マル経系の文献を読んでいるとそういうことがけっこうある。ここでいうところの「市民」と「大衆」(あるいは知識人やインテリなども?)の関係をちゃんと整理しないとなんだろうな。なんてことをしていると専門から外れるわけである(たまに人に指摘されて、それは私の気質のせいかなと思っていたが、マル経を学ぶ宿命/からの要請では?とさいきんは思っている)が、例えば専門バカのことをオルテガは「大衆」と呼んでいた。