• 2025年3月5日

    あまりの疲れに昨日は19時ぐらいに就寝してしまい、1時ぐらいに目が覚めた。早く寝ることができた日はすぐに目が覚めてしまいがちだ。いい感じに5時ぐらいに起きてくれないものかしら。昼前にあと一週間とちょっとに迫った行事の打ち合わせで大学へいく必要がありそのまま起きていた。

    また寒くなってきたなと思いながら大学へ。

    打ち合わせ後に参加者の名札を作って印刷する作業をしていると、プリンターが壊れた。もともと調子が悪く、新たなプリンターはすでに買ってあって、段ボールのなかに温存されていたものを開封して諸々の設定。この設定が上手くいかない。原因を探るとオンラインでの印刷のためにはまた別の機材を買わなければならないとのこと。よく知らないメーカーのプリンターで、営業に変なものをつかまされたんじゃないかと勘ぐってしまう。なんとか有線接続で印刷できるように設定。誰のための時間なんだ、何が船を動かすんだ、と思いながら名札の作成と印刷を終えると、あっという間に夕方。無論無給である。いやはや。

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  • 2025年3月4日

    後輩が借りているアパートを引き払って実家に帰るということで、冷蔵庫を買い取ることに。その手伝いの一日。となると冷蔵庫を業者に回収してもらわないとなのだけれど、ものぐさで連絡しておらず、冷蔵庫が部屋に二台あるという状態である。いやはや。

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  • 2025年3月3日

    知らぬ間にVポイントというポイントが結構貯まっていて、家電量販店でStream Deckを購入。3×15の小さな液晶が内包されたボタンに、任意のアプリのショートカットを割り振ることができる。例えば、アプリの起動だけではなく、いくつかの連なる動作も一つのものとして登録することができる。同時にいろんなジャンルのアプリを起動しているという状態がちょくちょくあり、頭のなかもてんやわんやなのに加えて、PCにも悪いような気がしていた。ひとまとまりのアプリのを一つの動作で起動/終了させることができれば少しはマシになるかもしれん、というわけである。

    ふだん研究やデザインを行う際は3つの画面で作業していて、あるアプリはこの画面に、というのを特に定めておらず、流動的に配置していた。毎回始業時に、最低三回はアプリを開いてこの画面に配置して、ということをやっていた。こんなことでと自分でも思うが、こういった細かい作業がネックで、PCに向かう足が重たくなる日もある。ある作業を始めるまでの導線を少しでも楽なものにしたいとかねがね思っていた。

    同じようなことを考えた先人がたくさんいるだろうと思って特に調べることもなくかってしまったのだけれど、思いのほか見当たらず、見つかってもWindowsのものだらけでうーむと思いつつ悪戦苦闘していると、気がつけば遅い時間になっていた。無理矢理にではあるがなんとかすることはできたのでひとまずこれでよしと重い次の日の準備を少しして寝る。

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  • 2025年3月2日

    調査データの整理に手をつけ始め、論文を書き始めければ書き始めなければと思っていたけれど、宿題を始める前に部屋を片付けるように、目につく積んでいた本、数十冊に一通り目を通す。そんなここ数日だった。ずっとモニターの横に置いていた本を案外読んでいなかったりする。とはいえ、何らかの関心があって買った本であるわけで、偶然か必然かそれぞれが有機的につながってくる感じがあって、ようやく書き始めることができそうだという気分になってきた。

    とりかかりとして、あらかじめ作っていたIn designで投稿予定の学会誌を見ながらそっくりなフォーマットをいじる。フォーマット上で、いくつかの論文を参考にしつつ各章の文字数を設定。各章をレイヤーに分けると、各段落にごとにフレームグリッドの色を変えられる。各章ごとに色の違う原稿用紙があるイメージ。それを目安にしてUlyssesでプロジェクトをつくり、各章の仮タイトルとともに目標文字数を設定。あとはドラフトとして一気呵成にUlyseesに書き込んでいく、そんな感じでやってみようと思う。

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  • 2025年3月1日

    春の陽気春の陽気のウキウキの部分。

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  • 2025年2月28日

    首をひどく寝違えて一日中動くのが辛い日だった。運動を始めようと思ったら、、みたいなことがよくある。ここでめげないことが大事だ。同人誌の作業が終わったことで頭の中に余白ができたのか、今日は集中して色んな文献を読むことができ、気がついたら朝の6時近くだった。なんというか、大小関わらず先に予定が入っているということに対して、脳内にキャッシュが溜まっているようなイメージがある。あらゆる予定を今日空いてますかぐらいの感じで入れて暮らしていきたいものだが、まあ無理な話である。とはいえ、忙しそうにしてる/吹聴している人って声かけにくいしねえ(この日記もそうだろうと言われると返す言葉がありません)。となると忙しいことを隠すことになるわけだが、にも関わらず暇そうだと思われるのは癪に障る。暇なくせに忙しそうにしやがってと思われていることもあり癪に障るどころではない。たんに暇になればいいのだけれどいつになるのやら。

    ずっと読まねばと思っていた戦後間もない頃の農業経済学の文献をobsidianでノートを取りながら読んだ。だいぶ使い方に慣れてきた。まだその時期は影響力のあったマル経がベースになっている論文で、途中まではふむふむと読みつつも、最終的には農業に資本主義が浸透していくにつれ労働運動に参加する「市民」が生まれました、そのための根本的な条件とは?的な結論で、面食らってしまった。経済の話をずっとしていて、最後にあるべき人間像みたいなもので終わられてもなあと思うわけだが、そういう時代だったのかしら。マル経系の文献を読んでいるとそういうことがけっこうある。ここでいうところの「市民」と「大衆」(あるいは知識人やインテリなども?)の関係をちゃんと整理しないとなんだろうな。なんてことをしていると専門から外れるわけである(たまに人に指摘されて、それは私の気質のせいかなと思っていたが、マル経を学ぶ宿命/からの要請では?とさいきんは思っている)が、例えば専門バカのことをオルテガは「大衆」と呼んでいた。

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