• 2025年4月9日

    先日から、春蜺という私の曲が各種サブスクで配信されている。曲自体は数ヶ月前に出来ていて(原曲に関しては数年前)、なんとなく配信を先延ばしにしていたのだけれど、春も来たしということで、Tunecoreというサービスを通じて、配信手続を行ったのだった。この時差は多忙だったせいもあるが、なんとなく配信するのが億劫だった。というのも、以前に何曲か登録したことはあり、かつ細やかにどこでどれくらい聞かれているのかというアナリティクスを見ることができる。推察するに、知り合いにしか聞かれていないんだろう(ありがとうございます)と感じていて、それならYouTubeにはあげているので十分だと思っていた。とはいえ、米津玄師も誰にも聞かれなくてもニコニコ動画に曲をあげ続けていた日々があったという話を聞いて、若輩者の私がそんな気持ちではいかんと久しぶりにTunecoreを開き、Spotifyのアーティストページなんかも整え始めた今日この頃である。もちろんニコニコ動画にもアップした。

    最近、アプリを消すなどしてほとんどTwitterを開いていなかったのだけれど、久しぶりに見てみるかとブラウザでログインしてみると、知らない人にメンションされていた。春蜺を含む私の曲を紹介してくれていたのである。YouTubeにあげている曲にいいねがついていたことぐらいはあったけれど、知り合い以外から、ここまでのリアクションを知り合い以外から受け取ったのは初めてで、とても嬉しかった。Spotifyのおすすめに出てきて聞いてくれたとのことで、ちゃんとアルゴリズムが機能してるんだという素朴な驚きがあった。

    Tunecoreだったり、Spotifyアーティストではその日のうちにどこでどれくらい聞かれているかのアナリティクスを早速確認することができるのだけれど、ここ一年のすべての曲の再生数を一日ではるかに上回っており、しかも世界中で聞かれていて、そんなまさか、と戸惑っている。おそらく可不がメインアーティストに入っているからだろう。予想、意図していなかったわけではないが、ここまでとは。

    広義のボカロのラップ曲を作っているのには色んな理由がある。とあるジャズミュージシャンの試みを引き継ぎたいというのがまずあるし、『アンビバレント•ヒップホップ』という最近出たヒップホップに関する本への私なりの回答の模索でもある。あまり手の内、胸の内を明かすのもなんだしなという気持ちもあるが、覚悟という意味でも、こういうことを言っておくのは大事なのかもしれない。日本のビートメイクシーン、ひいては日本語ラップシーンへの別の回路を作ること。まだほんのわずかではあるが、可能性が見えた日だった。


  • 2025年4月8日

    昨日の日記を読み返して調子のよいことを書いとるなと思った。先月は多忙ゆえその日のうちに日記を書くことがあまり出来なかった。今月はどれだけ眠くてもなるべくその日のうちに、とうつらうつら書いていて、翌朝読んでこんなことを書いていたのか、と驚くことがしばしば。一晩経って改めて考えてみて、大袈裟に書いてはいたが、昨日のアイデアは、悪い筋ではなさそうである。

    買い物に行った帰り、警察官が5人ぐらいで一時停止の取り締まりをしていた。最低賃金で考えていくらの税金がここに、、マルクス経済学的にはどう捉えられ、、みたいなことをすぐに考えてしまう。公務員に対してマルクスって何か言ってたりするのだろうか。やっぱりサービス業となるとわからんなとこれを機にいくつか積読していた文献をパラパラと読んでみた。意外というか、ネグリ&ハートの『帝国』に第一次産業から第二次、第三次への移行、つまり非物質的生産の増大について、マルクスの乗り越えとして論じている箇所を見つけ、そういう本やったんやという学びがあった。

    なんでもいいけれど、例えば、ソシャゲがどういう剰余価値を創り出しているのか、ということを説明できないといけないと思う。資本家が労働者からピンハネする部分を剰余価値というけれど、ほんとにそれだけかね、ガチャは?と思っていた。あながち間違っていなかったのかもしれない。マルクスが現代に蘇ったら、という視点に立たんとなと改めて思うなど。マルクスは『花束みたいな恋をした』を見て何を思うんだろう。『シン•資本論』が待たれる。


  • 2025年4月7日

    気圧のせいか頭が思い一日。これまでの研究成果と今年度の研究計画を合わせたスライドを一日中作っていた。机から動くのもだるく、洗濯機に洗濯物を入れたまま、キッチンに洗い物を溜めたまま、政府や国際機関の資料を読んでいた。あたまいてー、腰もいてーと悶々と、猫背を気にしつつページをスクロールしていると、急にアイデアが降ってきて、これが形になれば今年度というか卒業までいけるという感触があった。調査対象地が二ヶ所あって、それらをどう並べるか、接続するかということがずっと懸念事項だったのだけれど、これならなんとかなりそうである。

    研究と趣味の間を行ったり来たりしながら、これまで見て/聞いて/食べて/飲んできたことを有機的につなげることができそうな気がしている。先々週、恵比寿であの展示を見ていなかったら、数年前、勇気とお金を出して現地の案内人に世界遺産を回るツアーを頼んでいなかったら、大学に入ってすぐ、幼馴染に連れられてあのお店に通っていなかったら、イムズの裏のジュンク堂(今はどちらももうない)のエスカレーターをのぼった先の棚に、あの本が並んでいなかったら、今日このアイデアはきっと生まれてなかったと思う。

    どうなんだろうか。深夜テンションのせいでないことを祈りたい。全く行く気持ちのなかった万博にも行かなければ、みたいな気持ちになってきている。やはり深夜テンションな気がしてきた。それに、こんな風に物語化したがるのは私の悪い癖だ。明日起きたらしょうもな、となっている可能性もなくはない。とはいえ、たぶん大丈夫だろう。あと一年で形にできるか不安しかないが、なんとかするしない。研究の領分をはみ出てしまう部分もあるけれど、それは別の形のものとして形にできるだろう。これが私にとっての批評だ、というものを。


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